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2012/08/24 (Fri) 1年5ヶ月

先日、8月11日のこと。

昨夏の記憶を振り返りながら、
あれからの隙間を埋めていたら
ちょうど1年と5ヶ月めだったことに気づいた。






隙間を埋めたくなるこの癖は、
もう子供のころからずっと。

この身体で
見た、聞いた、触れた、感じた、
そういうものが「私」を作っているんだと、
なぜだかそう思っていて、
そういう「私」全部を残しておきたくて、
日記を書き続けてはや33年。

ちなみに日記は、公開しようがしまいがおすすめです。
文脈とか脈絡とかなんて、どうでもいいことで、
自分の足跡、自分の整理、
自分の記憶を喚起させるツールとして。

記憶とともに溢れ出した感情は、
「共有感」を守りたいという私の意志。
3月11日のあの日、私が塩竈にいて、
そこで過ごした時間や空間、
3月10日までに積み重なったもの、
私の中で消えることのない記憶とか意志を、
ただただ必死に守り続けていた。

距離とか時間を超えても
つながり続ける意志のようなもの。
ありとあらゆるものが変化しても、変わらないもの。

バッタリ出逢える、という
印象的な偶然が繰り返されて来た私の、
その人生の「不思議」を自分が解明するために
「自分を知る」ことをやめさせずにいる。

そして再びその不思議が私を私に引き戻す。
そして私に永遠を思い出させる。






そもそも、希望や願いという
ベクトルが無いところには「反応」すらしない。
争いや拒否や否定すら、
希望や願いという「反応」なんだし。

「無知」や「違い」を超えたいという意志、
それよりシンプルに
「逢いたい」とか「話したい」とかいう欲求、
それは「エゴ」と言われる
嫌われがちなものなのかも知れないけど、
そういうものを含む自分自身を
大切にしあいたいという気持ち。






そんな想いが蘇ったら、
いつものごとく
私はこんなに人を思っていたんだ。
私はこんなに人に思われていたんだ。
というところに行き着いた。

以前にも増して感情に触れやすくなったぶん、
そこに行き着くのが早すぎて、
自分でもなんだかポカーンとしてしまうんだけど、
それもこれも、
母の寂しさと私の寂しさを共有した記憶
私を大きく癒した成果なんじゃないかなぁ、と思う。

「拒否」するのは「相手」じゃなく、
そう思っている「自分」だから。
そういう自分を受け容れあったら、
それぞれの想いはひとつだってことに気づく。

自分の中の矛盾を統合させるための
果てしない癒しの道のり。
これからも、私は私を癒し続けよう。
そして私好みのアートに酔いしれていようと、そう思った。

自分には見えないこと、
自分にしか見えないこと、
その両方が、大切なもの。

自分を必要としてくれる力に、
人は誰もが支えられているんだと思う。
だけど自分が何を必要としているのかを
知らないと苦しくなる。
求められることに応じるだけが人生じゃないから。

だからすれ違いやタイミングすらも含めて、
私は愛の力だって信じてるんだ。

破壊や破滅なんてものは無い。
「つながり」という関係性は
意志を超えたところでも常に保たれているからね。


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